November / December Edition
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広報委員会
◎日本人の存在、米国に伝える
=クリアリー齊藤信子さんインタビュー=
広報委員会
副委員長
石田 恵吾

音楽芸術コミュニティー・スクール Community Schoolf of Music and Arts(CSMA)館内(たてうち)ホール日本文化会長、Japan Society of Northern CaliforniaのGALA Chairを務め、2022年には日本文化普及への貢献から旭日単光章を受章したJCCNC会員のクリアリー齊藤信子さんが広報委員会のインタビューに応じた。愛する音楽を起点に米国でのネットワークを広げてきた齊藤さんは、原爆の被爆者を追ったドキュメンタリー映画などを製作してきた。「日本人として、こういう(作品で追いかけたような)日本人がいるということを皆さんに広めたい。私はそのためにアメリカにいるのではないかと思って、生きている」と語った。
-米国に来た時を振り返って
当時は、安保闘争で大変な時代。勉強したい、目的のもの(スキルなど)を身に着けて日本に帰りたいという若い人たちが多かった。私もどうしても英文学が勉強したいと言ったが、父は当初反対していた。幼いころから身体が弱く、小学校の送迎も父の運転手が時々してくれるという状況。それだけに父は、一人で住めるかという心配や、日本の代表として行ってひと様にご迷惑をかけることがないか気にかけていたのではないかと思う。なので、父は、二つのことを約束するように私に言った。一つは、一生懸命英語を勉強し現地の人と自由に話せるようになること、いつか国連で討論できる語学力を身に着けること、それくらい頑張るようにということだったと思う。もう一つは、日本から出るのだから、日本の恥にならないよう生きること、「信子の生き方を見て私もアメリカに行きたいと思うようになった」と認められるような生き方をするよう言われた。これは日本人として凛として生きるようにという事だと思う。
-留学生活はどうだったのか
ボストンのノースイースタン大学に入り、1970年に英文科を卒業した。その学科を卒業したのは日本人で初めてだった。とにかく卒業するのに必死だった。当時はベトナム戦争があり、学生運動も盛り上がっていた。私は政治問題に関与することなく、必死に勉強した。
テッド・ケネディ氏がスポンサーの一人になってくださり、本来は学生ビザで働けないところ、日本文化を紹介する場をいただいた。日本にいた頃、日本舞踊、お茶、生け花など花嫁修業のようなことは全部しており、それが役に立ったと思う。ただ、一番役に立ったのは、車の運転だった(笑)。
-日本文化の振興に取り組みは。
文化、音楽が好きで、とにかく日本文化を広めたいということで始めた。きっかけとなる歌を習い始めたのは7歳から。身体が弱かったので、呼吸器をトレーニングすればいいのではないかという話になり、お子様が童謡歌手をやっている母の友人から健康に良いとの勧めも踏まえ、NHKの試験を受け合格した。後にCSMAと関わりを持つようになり、年に一度、本物の日本文化をお見せするというのが今の私の信念になっている。
野村万作氏の狂言、宝生流能、京都の人間国宝のお茶のお点前や着物ショー、毎年素晴らしい古典、近代芸術家の方々にご協力頂いている。今も心に残っているのが日米スペシャルミュージックコンサート。細川佳代子女史(細川護熙元首相夫人)のご支援で成功した。日米の自閉症の子供たちが演奏し最後に”It’s a small world”を観客と一緒に演奏合唱した時は私も胸が熱くなった。今でも子供たちのまぶしい笑顔がうかんで来る。渡邊総領事ご夫妻が「すごい!感動した」とおっしゃって下さった。最初はご両親たちが反対なさったそうだが、帰国した我が子の姿があまりにも自信をもって成長していたので細川女史にお礼をいわれたそうだ。

-映画も作られている。
2016年のPaper Lanternsは、広島の被爆者、森さんが被爆した米国人捕虜の家族を35年かけて探し当てる話。アメリカ政府は、自国の兵士が原爆で亡くなったと認めたくないから、行方不明者扱いにしていた。森さんはP.O.W.(捕虜)の遺族に会ったのだが、彼らは「これで自分の人生に幕を降ろせる」と感謝していた。こうした日本人がいるということを皆さんに広めたい。これがアメリカにいる私の役割だと思っている。国連で4度上映し、2度スピーチする機会を頂いて森さんと平和の尊さについて述べた時は各国の大使達がスタンディングオベーションをして下さって感激した。
二作目は「チャレンジド」というタイトルの映画である。知的障がいのある音楽家たち「瑞宝太鼓」を取り上げた。私は音楽を通して知的障害の子供たちと関わり、細川女史とスペシャルオリンピックのお手伝いをしていた。障がいを持つ子供たちが地域の偏見にさらされ嫌な思いをしたり、言葉が不自由のため嫌がらせを受けたりという場面を見てきたので、インクルージョンの世界に一生懸命努力してきた。彼らを見ていて、かわいそうだという感覚は失礼なことだと学んだ。瑞宝太鼓を見ていて彼らがいかに立派か認識するとともに、自分が手伝ってきたことが表面的だったと反省した。一歩一歩、歩む彼らの力はすごい。そして彼らは世界にも羽ばたいた。
三作目は2022年に完成したDr. Balaという作品。日本慈恵医大の大村和広医師が1年間に1週間の休みを利用し東南アジアで医療ボランティアを続け、現地医師に技術を伝え、自信を与える話だ。
-こちらでのネットワークも非常に大切にされている。
1985年にCross Cultural Communicationsを立ち上げた。当時はまだ日本人で今のように英語ができる方も多くはなく、米国の方も日本のトレンドや言葉をご存じない方が多かった。私の作った教科書や教えた内容を重要視してくれた。その縁で、CSMAを立ち上げた時も主人や友人たちの支援を頂き、13ミリオンドルの寄付を集めることができ建物が完成した。皆様からも「信子から頼まれる寄付は、理由と目的が明確だ」と言われる。大事にしているのは人とのつながりで、頼まれれば出来る限りお手伝いさせて頂く。寄付の使途も明確にしている。「毎年寄付の使い道を報告してくれるのは信子が初めてだ」とサポートして下さる会社の方によく言われる。
-何からそうしたやり方を学んだのか。
学問的にはスタンフォードグラジュエートスクールオブビジネスで学んだことも大きいが、日本にいた頃にイオンの岡田卓也名誉会長からご指導頂いた実践社会での経験も活きている。南麻布に住んでいた時の前の家が岡田会長(当時)の家だったのだが、日米の合弁会社の取締役会に通訳やコンサルタントとして毎回参加させて頂き、そこでいろいろなことを学んだと思う。昨年旭日単光章を受章した時は岡田名誉会長が「おじちゃまももらっていないのに信子はすごいな。江戸時代の士農工商の慣習が続いていて、日本は商人だとなかなかもらえないんだ」と笑っておっしゃっていたが、今年最高の旭日大綬章を受章された。心からお祝い申し上げたい。
岡田名誉会長は、私の叙勲祝賀会のパーティーでも、大きな桜の枝をプレゼントして下さった。2月でまだ満開の桜を見れなかったので、感激した。お礼の電話を差し上げたら、「信子は桜が好きだし、桜は日本を代表する花だ。これからも日本代表として頑張ってほしい」と言ってくださった。何十年も、こうしていろんな方々に見守っていただけるのは本当に嬉しくひとえに皆さまのご厚情によるものと深く感謝してます。
今回の叙勲を真摯に受け止め、今後とも日米親善に文化とビジネスを通じて一生懸命務めてゆきたいと思っている。

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